
神奈川で育まれたヤクルト愛 魅了された守備職人「ダブルプレーが輝く瞬間」(前編)
「野球に詳しすぎるフリーアナ」として各メディアで活躍中の山本萩子(しゅうこ)さん。2019年から5年間、MLB番組『ワースポ×MLB』のキャスターを務めたほか、週刊プレイボーイで連載中の「山本萩子の6-4-3を待ちわびて」ではそのマニアックな視点が好評を集めている。今回キングギア ではインタビューを実施し、前編ではプロ野球の東京ヤクルトスワローズの大ファンとして育った山本さんの野球遍歴に迫った。※トップ画像撮影/長田慶

野球好きな両親のもとヤクルトファンに
ーー山本さんは神奈川県横浜市出身。小さいころからスポーツに興味があったんですか?
スポーツ全般というわけではなく、自分の両親が野球が好きで、私が小さいころに近所の公園に行って父親とキャッチボールをしていました。ボールをトスしてもらって、それをグラブでとって素早く右手に持ち変える送球の練習を小さいころからしていたくらい両親とも野球が好きな環境で育ってきました。物心がついた時から野球が好きでしたね。
ーー部活動でスポーツはされてましたか?
自分がプレーする面では馬術をずっとやっていたんです。それは私が幼稚園のころに施設でヤギを飼っていて、そのヤギに私が乗っていたのを見た当時の友人が誘ってくれて馬に乗っていました。
ーー馬術はどのくらい続けていたんですか?
馬術は小学校の頃から高校卒業するまでです。10年くらい馬に乗っていました。
ーー山本さんはヤクルトのファンとしても知られていますね。ご両親は関東の方ですか?
両親ともに出身は島根県でした。周りはほとんど巨人ファンで、広島や阪神ファンも多かったので、両親ともにスワローズファンというのは珍しかったなと思います。私の母方の祖母は大のジャイアンツファンで、今でも行けばずっと野球がテレビでついています。母親もそういう環境で育ってきたことが理由だったと思います。
ーーどのくらいの時代のヤクルトから観てますか?
私は1996年生まれで私が観はじめたのは2000年の初頭からと記憶しています。中盤からしばらくは弱い時期も多かったので、私のなかでは低迷している時期のスワローズを観ながら育って、黄金期が終わったくらいの時でした。
ーー野村克也さんは辞められていて若松勉さんが監督くらいの時期ですか?
そうです。好きな選手もいましたし、神宮に行くのも球場に行くのも楽しみでした。
Photography/Kei Nagata
憧れはGG賞10回のレジェンド
ーー初めて観戦に行ったのは神宮球場ですか?
神宮で、両親も最初は神宮がいいと思ってくれていたみたいです。私が生まれた年くらいに宮本慎也さんがデビュー(1995年)されていて、宮本さんのとにかく大ファンで、土橋勝征さんと宮本さんが二遊間を組んでたころから好きで、そのあとに宮本さんがサードにコンバートされてからもずっと追っていました。宮本さんの大ファンなので、だからこそ近所の公園とかに行ってバッティング練習でもなくゴロをさばく練習をしていました。
ーー山本さんが観ていた時期は岩村明憲さんなどホームランを打つ打者もいたと思うんですが、宮本さんや土橋さんに興味がいったのはどうしてですか?
華がある選手はもちろん素敵だと思うんですけど、そうじゃないところに自分で魅力を見つけるのが好きだったと思うんです。
だからこそ親の影響はあるけれど、スワローズファンになったのはそういう部分かなと思います。華のあるチームはほかにあったけれど、そのなかでスワローズに行くのは少し変わっているかもしれませんが、そういうところに魅力を感じたいと思っていました。
ーー山本さんは週刊プレイボーイでコラムを執筆中で「6-4-3」がタイトルに入っています。試合を観ていてもそういう部分が好きになりましたか?
もともと守備に魅力を感じていたんですけど、守備のなかでもとくにダブルプレーが輝く瞬間だと思っています。その輝く瞬間の中でも「4-6-3」はボールがダイヤモンドを行き来する感じとかがすごく華やかだなと思うんですけど、「6-4-3」って言ってしまえば少し地味なんです。
ですが、ショートが取ってから投げるまでのスムーズな体勢の変化や、体がひるがえす感じとかがかっこいいなと思いますし、試合中でもショートにボールが飛ぶとワクワクします。
ーー宮本さんはこの世界に入ってから共演も実現しましたね。プレーを観ていた時の宮本さんと、実際に対面した時の宮本さんはいかがでしたか?
やはり私のなかでは二遊間に抜けそうな当たりを飛びついてアウトにする宮本さんのイメージがすごく強い。実際に対面してもその時の映像が蘇ってきます。
憧れの人が目の前にいるし、そういう方に実際のプレーや守備のことを直接質問できるのはすごく嬉しいこと。いろんな方とお仕事を一緒にするなかで、たくさんの人とお会いしてもちろん毎回感動はしているけれど、私以上に両親が感動しているんです。「明日宮本さんと仕事ご一緒するんだよね!」と言うと、本当に毎回「羨ましい!」と言われます。
ーーご両親も野球の専門的なところまで詳しい方でしょうか?
私が野球をお仕事で観ることになってからたくさんの方とお話して学んだ部分はもちろん多いんですけど、それ以上に私の野球を観る師匠が自分の両親で、中継を観ながらも、実際に球場に行った時でも本当に目の付け所が細かい。自分自身も親に育ててもらったと思うので、細かいコアなところを教えてもらったという感じです。
ーー神宮球場で実際にご覧になった数はどのくらいですか?
本当に1番よく行ってた時期は大学生くらいで、例えば神宮で6連戦ある時とかに5連戦行ったり(笑)。試合数でいうと年に行っていない時でも最低でも10試合は小学生くらいから観ていると思います。
Photography/Kei Nagata
球界に受け継がれる野村克也さんのDNA
ーー山本さんが今まで観てきたなかで1番好きなヤクルトのチームはありますか?
個人的に思い入れが強いのが14年ぶりに優勝した2015年で、真中満監督の1年目だったんですよね。
あの日の優勝した瞬間は私は現地に試合を観に行っていて、本当は前日に試合があったんですが、雨で流れて翌日に振替になったんです。
結構レアなスケジュールで本当に決まるはずだった試合が翌日に振替になって、チケットも前の試合は取れなかったんですけど、1回払い戻しになったんです。大学1年生だったと思うんですが朝からスタンバイしてなんとかチケットを取って友人と一緒に優勝の瞬間を観られました。その日は誕生日(10月2日)だったので、人生で最高の誕生日になりました。
その時に真中監督が1年目で、高津臣吾さんが投手コーチに入っていてコーチ陣と真中さんが優勝した瞬間にベンチで輪になって抱き合っていたシーンがすごく印象的で、その時に「チームとして戦ってるんだな」と思って。
もちろん選手が活躍しての優勝ですけど、ベンチもそういう苦悩とかシーズンを戦い抜く上での過酷さがあって、優勝して報われた瞬間、ベンチでコーチが抱き合ってるシーンがすごく好きでその画像を(携帯の)待受けにしていました。「たくさんの感動をありがとう!」という気持ちを忘れさせない意味で好きなシーズンでした。
ーー山本さんは猫に「バレンティン」と名付けていますね。印象に残る助っ人もバレンティン選手でしたか?
バレンティン選手ですかね。キャラクターとかいろんな面を含めて好きですし、あとはなんといっても60本のホームランを打っています。あの年(2013年)ってスワローズは最下位だったんですけど、バレンティン選手の記録と小川泰弘選手の最多勝だけが心のよりどころだったので、本当に支えてくれたという意味でもバレンティン選手は印象に残っています。
うちの両親も大好きで、保護猫だったんですが、猫を引き取るとなった時に「バレンティン」という名前にしようと決めて猫に会いにいって、うちに来た時からバレンティンで今も元気にしています。
ーー先ほど名前が出た宮本さんがバレンティン選手に対して熱心に指導していました。あの関係はいかがですか?
日本のキャプテン的な人と外国人選手の関わり方として、師弟関係みたいな関係はなかなかないですよね。あのバレンティンも宮本さんにはちょっと頭上がらなかったですし。
ーー宮本さんはそういうキャプテンシーも惹かれる部分ですか?
本当にそうですね。1番といってもいいくらいの守備とキャプテンシーや、チームを率いるプレーヤーとしてプレーでも意識的なところでもチームを率いるという意味ですごいなと思っています。それは宮本さんであったり古田さんであったり今のスワローズって野村克也監督時代から続くDNAが残っていて、とくにそういう人たちがまた上に立って引き継がれていくことはすごく魅力的なことだと思います。
ーー2022年開幕時、NPBの監督はヤクルトが高津監督で楽天が石井一久監督。阪神時代も含めると阪神の矢野燿大監督に日本ハムの新庄剛志監督。
さらに西武の辻発彦監督もヤクルトに在籍していて5人いたんですよね。野村さんが引き継がれたヤクルトのDNAが残っている野球界はどう思いますか?
まさにそれは不思議だなと思って。チームはどんどん人が入れ替わっていくのにチームカラーはそんなに大きく変わらない。(元ヤクルトの)五十嵐亮太さんとお仕事をご一緒する機会が多くて五十嵐さんに話を聞くと、ヤクルトって今で言うと古田さんの意識が強く残っていてそれはたどっていくと野村さん時代から続くもの。
それがどんどん受け継がれていて、選手が変わって首脳陣も変わってるのに残っていて、それは私がヤクルトを好きになった理由で、言い方が陳腐になってはしまいますが「ファミリー球団」。
そういう引き継ぐことをよしとしていて、チームカラーがDNAとして残ってるのをいたるところに感じます。例えばベンチで選手が互いに話していたり、監督と選手の関係性とか、その距離感は野村さん時代から続くものなのかなと思います。そういうところが素敵だし、時代とともに変わっていくだろうけど、良いところは残っていってほしいと思っています。
Photography/Kei Nagata
中編につづく。
山本萩子
1996年10月2日生まれ。神奈川県出身のフリーアナウンサー。日本女子大学人間社会学部心理学科卒業後、日本女子大学家政学部食物学科栄養学部を卒業。大学在学中にスカウトされセント・フォースに所属。2019年にNHK BS ワースポ×MLBのキャスターに就任し、5年間勤める。現在もテレビやラジオで野球番組などに多数出演している他、週刊プレイボーイで連載コラム「山本萩子の6-4-3を待ちわびて」を担当。趣味は野球観戦で、特技は乗馬。日本馬術連盟認定騎乗者資格B級。
Hair&make:Anri Toyomori (PUENTE.Inc)
Photo:Kei Osada
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