
中学野球界から姿を消した記憶喪失のバッテリーが、弱小都立高校で再始動。「忘却バッテリー」
冬場のシーズンオフ期間を経て春が訪れ、野球のシーズンがめぐってくる。国内プロ野球の開幕戦に、球児たちのドラマが繰り広げられる“春のセンバツ甲子園”も3月に控え、期待を募らせている高校野球ファンも多いのではないだろうか。今回取り上げるのは、先行作品の多い「高校野球」をテーマにしながら“トリッキーな設定”でも注目を集める「忘却バッテリー」だ。※トップ画像/筆者撮影

「野球のない生活」を思って入学した都立高校で、再会してしまう球児たち
「忘却バッテリー」が連載されているのは、ウェブコミック配信サイト『ジャンプ+(プラス)』。2018年に連載がスタートし、2024年4月にはTVアニメ化もされ、来る2025年4月からはTVアニメ第2期の放送も予定されている人気作だ。
「高校野球もの」といえば熱い青春ドラマを描いた名作も多いが、「忘却バッテリー」はそのキャラクターに大きな特徴がある。
メインキャラクターにはかつて中学硬式野球チーム、いわゆる“リトルシニア”のチームに所属していた球児たちが高校生となって集まる。
その圧倒的な実力から、対戦した多くの選手たちの心を折ってきた投手・清峰葉流火(きよみねはるか)と捕手・要圭(かなめけい)の怪物バッテリーが。しかし、智将と恐れられたはずの要はその記憶を「全て失っている」。優れた戦略を武器に葉流火とバッテリーを組み、所属する「宝谷シニア」を勝利へ導いてきた要は野球の技術どころかルールも忘れ、素人同然になってしまった。しかも会う人会う人にウザ絡みし、一発芸を見せてはスベる、180度のキャラ変で。
対戦で当たったチームや選手を絶望の底に叩き落とし、中学野球で「悪夢のバッテリー」として名をはせてきた二人だが、要の記憶喪失を機に、「俺の球を捕れるのは圭だけ」と信じている葉流火も野球から遠ざかり、全ての高校からの推薦オファーを辞退して野球部のない都立高校へと進学する。
そこには同じように野球を辞めたかつての野球少年たちがいた。捕手の山田太郎、遊撃手の藤堂葵、二塁手の千早瞬平など、リトルシニアチームでは実力を評価されていたものの、彼らは清峰と要の前にプライドを砕かれ、絶望を味わい、野球と完全に決別するために野球部のない小手指高校へ進学したのだが、そこに待っていたのは、その絶望の源である二人との再会だった。
出会ってはいけない才能たちが出会ってしまったことから、愛好会レベルだった小手指高校の甲子園を目指す日々が動き出すことになる。
記憶喪失によってリセットされた野球人生
弱小チームで実力者として鼻を高くしていた山田は、二人と自分の実力差に「野球をやめて他のことをしよう」と決めた。藤堂は二人との試合でミスをしたことから一塁への送球ができないイップスへ陥り、シニアチームを辞めてしまった。千早はフィジカル面のコンプレックスを技術と理論、そして努力で細やかにカバーしてきたものの、それらすべてを兼ね備えた二人の絶対的な強さの前に心を折られてきた。
「野球はもうしない」。葉流火と要を含め、全員がそう決めていた。それでも、リトルシニア時代の強敵と肩を並べて試合をする、そんなシーンを思い浮かべてしまった彼らは、それぞれの複雑な思いを抱えながらも小手指高校野球部の活動に加わることになる。
要は記憶を失い、部員全員から「アホ」と口をそろえられるほどのヘタレでチャラい高校生になってしまった。もちろん、葉流火と怪物バッテリーを組んでいたころの技術も失ってしまっている。
それでも要はわずかに“智将”だったころの才能の片鱗を見せることがある。例えば嫌々ながらキャッチャーとして葉流火の球を受ける際の構え方や、カバーリングの動作。それは厳しいリトルシニアの世界で戦ってきたことを想像させる、ムダのない動き。チームメートに「あいつはやはり要圭なのだ」と思わせるに十分なものだ。
また、要は野球の知識を失っているからこそ、一塁に送球できないイップスに悩む藤堂に「ワンバウンドで送球すれば?」と提案したりもできる。セオリーがないからこそ、おきて破りともいえるアイデアを出すことができる要は、智将と恐れられたころとはまた違った形で存在感を増していく。
なぜ要は記憶を失ったのか?人数も少ない公立高校の野球部が甲子園を目指せるのか?いつの間にか読者は、この才能たちの行く末が気になり始めてしまう。
球児たちを取り巻く厳しい野球の世界をかいま見ることも
葉流火たちは野球から距離をおくために名門私立のスカウトを断り、小手指高校へ進学した。リトルシニア時代のチームメイトやライバルたちの中には、球児の王道ルートである強豪校へ進学し、甲子園への“既定路線”を歩んでいる人物も少なくない。
彼らは幼い頃から野球漬けで生きてきた。それ以外の趣味を知らず、あるいは切り捨て、野球に打ち込んできた。高校では寮生活を送り、スマホを持つことも許されない。毎日が野球にまみれていて、それでもなお、栄光をつかめる者はほんの一握りという残酷な世界でもある。
それを望んで野球の世界に飛び込んだ選手も数多いはずだ。誰もその選択を後悔しないはずだが、作中では時折、名門校へと進んだかつてのチームメートたちが味わう、過酷な練習や厳しいレギュラー争いの場面も描かれる。3年間一度もベンチ入りを果たせないまま、後輩のサポート役に回る選手。「もう家に帰りたい」、それでも家族の期待に応えるために歯を食いしばる選手。だからこそ、甲子園をかけた戦いはいやおうなしに熱を帯びる。
「忘却バッテリー」は、コミカルなシーンやメインキャラクター達の成長、トラウマの克服など、スポーツ青春もののセオリーを外してはいない。だが、時折そこに隠れる「目を覆いたくなるような、スポーツの世界の厳しさ」を見せつけられるような気もする。だからこそ、彼らの行く先が気になって頁をめくりたくなってしまう作品だ。
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