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“ひとり”じゃない、パートナーとふたりで成し遂げる“プロピックルボール選手”への道

先駆者がいない、自分自身を信じて切り拓くー日本から世界へ挑戦し続ける“プロピックルボール選手”三好健太。日本では“初めて”のことが、世界ではもはや当たり前なことが多いピックルボールの世界。密着インタビュー後編では、遠征や海外での試合、そして今後の展望について話を聞いた。※トップ画像出典/All content owned by @ppatour. Australia and @mIp.Australia

Icon img 9605 1  1Nana Takahashi | 2024/12/06

ひとりじゃなくて、“ふたり”でプロピックルボール選手”になる

三好健太のパートナー、吉冨愛子もプロピックルボール選手だ。夫婦ふたりで、ともに世界に挑戦している、そんなパワフルカップルなのだ。

吉冨も元・テニス選手。しかもインハイ・インカレ優勝という華々しい実績を持つ実力者で、大学卒業後、プロテニス選手として活動していた。プロ引退後はテニスに携わる仕事をしていたが、三好と同じく2024年3月に再びコートへ戻ってきた。

三好と吉冨は、普段から夫婦で活動して、練習はもちろん遠征に至るまで行動を共にしている。遠征中に意見が合わないことも多々あり、言い合いもするらしい。でもお互いのことを理解しているから、コーチングがしやすいんだという。遠征は環境の変化や現地で感じるプレッシャーも敏感に感じてしまうので、メンタルケアが重要。お互いのことがわかっているからこそ、そんな大事な局面で支え合うことができているのだそうだ。

三好健太選手は体調管理、なかでも食生活面において、パートナーである吉冨のサポートが欠かせないという。短期間で様々な国を周ってはたから見てもハードな遠征生活を送っているが、彼女のおかげで一度も体調を崩したことがないんだとか。

日本初のプロ選手というのは本当に大変で、事務回りの対応もすべて自分たちでやらなくてはならない。だから三好と吉冨は自ら営業をし、スポンサー集めも行っているのだ。

特に最近は海外のピックルボール大会に挑戦することが多いので、日本ではテニス関連の仕事を請け負って、遠征費を賄っているそうだ。日本におけるピックルボールは、マイナースポーツゆえになかなかメディアに取り上げてもらえないのが現実で、だからこそ自分のSNSで情報発信をして競技の認知度を上げるという活動も行う必要があるのだという。

一日でも早く自分たちがピックルボールに集中できる環境を作れるよう模索中なのだそうだ。ひとりでは厳しい道もパートナーとふたりなら乗り越えられるーそれも同じプロとして、お互いが良き理解者。だからこそ険しい“未開拓”な“プロピックルボール選手“という道をともに歩んでいるようだ。

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出典/All content owned by @ppatour. Australia and @mIp.Australia

日本人初のMLPA出場

2024年11月6日。“それ”は突然の出来事だった。

ピックルボールを始めたの目標のひとつである、「MLPA(メジャーリーグピックルボールオーストラリア)出場」が決まったのだ。

MLPAではトップ選手達が4人(男子2人、女子2人)でチームを構成し、団体戦形式で戦っていく。この大会では各チームのキャプテンが、世界中のプロピックルボール選手達の中からチームのメンバーを選んでいく。今年の7月に発表された出場メンバーの中に三好の名前はなく、落選をしていた。しかし大会2日前の11月6日の朝、突然キャプテンからオファーがきてMLPAに参戦することが決定したのだ。

開催地はオーストラリアのメルボルン。イベントで訪れていた日本の静岡県浜松から急遽オーストラリアへ移動することに。妻の吉冨愛子選手のサポートもあり、無事大会に間に合い、三好はMLPAに初出場しプレーをした日本人選手となったのだった。

三好にとって夢の舞台であった「MLPA」出場初日は、気持ちが先行し、緊張で良いプレーが出来なかったという。しかし2日目は気持ちを切り替え、ミックスダブルスで初勝利。結果チームは3-2で勝利を手にすることができたのだ。

目標にしてきたMLPAという舞台で己のプレーで勝利に貢献するーこの経験は三好にとってプロピックルボール選手としてのキャリアに大きくプラスになるもので、日本で正解が分からないまま模索し続けていたプロピックルボール選手としての活動が間違ってはなかったと思える瞬間でもあったそうだ。

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ピックルボール選手として初の表彰台に

「PPA」ーアメリカ国内で最も権威あるピックルボールのプロリーグのことで、その規模は世界一だ。三好はそのリーグがオーストラリアに進出して開催する「PPA Tour Australia」に出場することに。今年2024年10月にベトナムで行われた「PPA Tour Australia」において、準決勝まで進んだ。残念ながら、マッチポイントが5本もありながら敗戦し、表彰台を逃してしまった。

しかし翌月11月にオーストラリア・メルボルンで行われた「PPA Tour Australia」では違う結果が待っていた。ここで三好はなんと3位に輝き、日本人初の表彰台に上ることになったのだった。

表彰台に立ったとき、そこから見える”景色”は本当に何とも言えず、いつもと違って見えたそうだ。「ピックルボール」が今よりさらに日本に浸透していなかったころから、信じて支えてくれたスポンサー、そして何よりいつも応援して下さるファンやサポーター、そしてパートナーの吉冨。自分を支えてくれたすべての人にひとつの“カタチ”として示すことが出来たのは瞬間だった。特にパートナーである吉冨の存在は大きく、彼女のコーチングや分析力があったからこそ、俯瞰して自分のプレーを捉えることができ、それが勝利に繋がったし、自分1人ではここまで来れなかったと三好は語った。

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三好健太の挑戦は終わらないープロピックルボール選手としての未来

日本でも徐々に認知度が上がってきたピックルボール。

三好が目標とする選手は日本にはいない。だから自分自身がピックルボール界での先駆者として引っ張っていく存在であるという。

彼が海外大会に挑み続けるのは、単にパフォーマンスではなく確実に結果を残し、後進にバトンを繋ぐためだ。どう繋げていくべきかーこの問いを考えることが一番難しいと三好は語る。

「どの大会に出るべきか」この選択もまた後進に繋ぐバトンの重要な問いのひとつで、単に認知度を上げていくだけならばビッグネームの大会だけを選んでどんどん挑戦すればいい。でもそこには現実があるわけで、確実に賞金を稼いで今後の自分達の遠征費を捻出することも大切なのだ。しかも海外の情報の早く鮮度が短い。現地にいても追いつけないほどスピーディーなので、物理的に遠い日本でその情報を追いかけながらプランニングしていくのはまさに至難の業なのだ。だから海外大会に行ったときの人脈作りも重要で、ただ大会で出るだけではなく、自分の情報収集ネットワークを構築する。「常にベストな選択を考え行動している。そこまでできてプロ選手だ」と。語っていた

目標はピックルボールの世界1位。ピックルボールは子どもから大人まで幅広い年代の人が出来るスポーツであり、初心者でもすぐに習得ができるため、将来的に幅広いプレイヤーが生まれるのではないかと思う。ピックルボールで何かしらの革命、社会現象が起きた時、先頭に立っているのは三好健太選手であろう。

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12月12~15日に日本最大のピックルボールの国際大会である「PJF Pickleball Championships 2024 in Japan」が東京都・有明テニスの森にて開催される。

この大会には三好も出場する。男子ダブルスではプロソフト選手でもある船水雄太選手と組むことが決定しており、「優勝候補は」と注目を集めている。三好にとって久しぶりの日本でのプレーで、私自身彼がどんなプレーをするのか今からとても楽しみなのだ。

日本でこの規模の国際大会が開かれるのは珍しいので、普段試合を直接見ることができない方々にもぜひ足を運んでほしい、そして本大会で“ピックルボール”に興味を持ってくれる人が一人でも増えたら嬉しいと三好は話していた。

かくいう私も今回の三好選手のインタビューで、“ピックルボール”の奥の深さ、面白さにすっかり魅了されてしまった。今後、テニスはもちろんピックルボールにも注目していきたいと思う。

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前人未踏の“プロピックルボール選手”という道を選んだ“三好健太”の挑戦とは

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三好健太
1995年埼玉県さいたま市生まれ。5歳からテニスを始め、9歳でアメリカはニックボルテリー(現:IMGアカデミー)で短期間のトレーニングと試合出場の経験を詰む。日本では12歳で初めて全国大会に出場。高校になると全国高校選抜テニスで優勝し更には世界最高峰と呼び名の高いUSオープンジュニア予選にも出場する。早稲田大学に進学後のインカレでは惜しくも準優勝に留まり、プロの道へ進む厳しさを痛感。卒業後は実業団の選手として3年間プレー。その後元々の目標であった独立を実現し、テニスの指導、大会やイベントの企画運営などを事業として展開。事業を進める中でピックルボールと出会い、今までにないワクワクとピックルボールという競技の可能性を感じる。再度夢だったプロの道を目指すという明確な目標もでき、2024年から本格的に選手活動を始める。目指すはピックルボールの選手として世界一になることとピックルボールで社会現象を巻き起こすこと。