Japan Women's Handball National Team Mayuko Ishidachi, to the final chapter of her handball life (Part 1)
Mayuko Ishidate, who is currently a member of the Mie Violet Iris and plays an active role as the representative of Japan in women's handball. It is a commanding tower with an impressive smile. Moved to an overseas league, aiming for the dream of participating in the Olympics. However, I didn't get the answer I wanted, so I decided to keep a distance from handball and decided to return to Japan. It was once a cold handball fever, but her life in her home made a difference in her mind... and then again to the dream stage. Looking back on his handball life so far, we interviewed Ishitachi about his goals for the future and his thoughts for the future. This time is the first part.
Satoshi Dairaku
|
2020/06/29
――石立選手がハンドボールを始めたのは、いつですか?
石立:中学生です。小学生の頃は陸上をしていました。しかし地元・福井は、冬になると雨や雪が多く室内でバスケやドッチボールをしていましたね。
中学生になりバスケ部に入るつもりで見学していたら、ハンドボール部の先生に「ちょっとうちも見学においで」と誘われました。
ハンドボールは初めて見るスポーツでしたが、ドッチボールで「ボールを投げる」ということは経験していたので、面白そうだから始めました。
――中学卒業後、女子ハンドボールの名門・石川県の「小松市立高等学校」に進学されましたね。これは強豪チームでプレーしたいという理由からですか?
石立:いいえ…実はハンドボールに誘ってくれた中学の先生が、入部したら厳しかったんです。中学時代、高校生と合同練習がありました。
福井は福井商業高校がハンドボールの名門でしたが、このチームの先生も怖くて「福井ではハンドボールは続けられない」と思いました(笑)。
中学2年生の時、私たちが敗れた石川県のチームが、楽しそうにハンドボールをプレーしていたんです。そのチームの3年生が進学したのが「小松市立高等学校」と父から教えてもらいました(笑)。
元々両親の出身も石川県ということもあり、小松市立高等学校に進学しました。 中学の時は先生の指示を忠実に守ってハンドボールをしましたが、高校は練習を含め自分で考えてプレーすることが多く、クリエイティブな面を育むことが出来ました。
――その後、当時全日本学生ハンドボール選手権大会3連覇を達成していた筑波大学へ進学しましたね。
石立:筑波大は20人弱のメンバーで、先生の指導も受けつつ戦術等、自分たちで考えることが多かったです。
例えば、高校時代は個人プレーで解決しようと思っていた場面も、大学では味方と協力しながら「どうしたら得点できるのか」「どうしたら人を生かすことができるのか」と、チーム全体のことを考えてプレーすることを考えるようになり、さらにハンドボールの面白さを知りました。
――大学卒業後はオムロンに加入、よりチームプレーを求められたかと思いますが…
石立:オムロンというチームは組織力が強くて、チームが勝つために自分が何をしなければいけないのか…チームの中での一人一人の役割を考えさせられました。「どのようにして勝つ集団を作るか」を学んだチームでした。
――オムロンに5年間所属し、その後、ハンガリーのフェヘールヴァールKCに移籍。これは、どのような経緯があったのでしょうか。
石立:大学時代から海外に行きたいと思っていました。オムロンに入り、日本代表に選ばれ何度も世界と戦いました。
ロンドンオリンピックの予選で敗れた時、合宿で海外に行き試合。その時点で自分はレベルアップしている。でも、そのレベルで戦っても海外勢に勝てない。
それで日本に戻り国内リーグでプレーしていると、自分のパフォーマンスが、どうしても落ちてしまう。 代表選手として海外で戦うと力が上がるのに、国内では力が停滞し、あるレベル以上突破できない自分に歯痒さを感じていました。
このままでは「オリンピックに出場する」という目標が叶えられない…目標に近づくには自分のパフォーマンスを上げる、そのためには海外で日常的にプレーする必要がある、と思い海外に行きました。
――石立選手は、日本と海外の実力の差は何だと思いますか。
石立:海外の選手は結果が全てです。良いパフォーマンスを出せば、それが給料に反映される。そのためには「どこで力を発揮しなければいけないのか」分かっています。
日本は給料も安定していて、良い意味で周りに守られています。当時の私は、そのような環境に物足りなさを感じてしまいました。
――そういう思いを感じてハンガリーのフェヘールヴァールKCに移籍したんですね。ただ残念なことに1年目でケガをされましたね。
石立:1年目、ケガをする前まで、チームの順位も私個人のパフォーマンスも良かったので悔しい思いがあります。ただ、リオオリンピック予選まで残り半年という時期だったので「早く治して戻りたい」という気持ちが強かったです。だから落ち込む暇もありませんでした(笑)。
――リハビリ期間を経て、翌年復帰しました。
石立:目指していた、リオオリンピックのアジア予選・最終予選で敗れ、オリンピックに出場できなくなりました。
このシーズンは目標としていたものが叶わなくてバーンアウト(燃え尽き症候群)していました。 これまで頑張ってきた理由がなくなり、ハンドボールを辞めて日本に戻って、第二の人生に進もうと考えていました。
――しかし、もう1年ハンガリーでプレーしましたね。
石立:大学卒業しオムロンに加入してから、「代表の活動」と「チームの活動」、常に行き来しながらハンドボールをプレーしていました。
ハンガリーでの3年目、最後の1年は「チームのため」にプレーして、選手活動を終えたいと考えていました。
実は、2年目フェヘールヴァールKCの結果が良く、翌年ヨーロッパのEHFカップへの出場が決まっていました。チームから3年目のオファーもあったので、この大会を最後の目標にし、ハンガリーに残りました。
――ハンガリーで活動すると同時に日本代表として活動するのは大変でしたか。
石立:大変ですね、特に時差ぼけが。ハンガリーと日本の時差は8時間あるので、状態を戻すのに3日かかります。
1つの合宿が2週間あると、3日でフィットさせます。だんだん調子が上がってきた時、チームに戻らなければいけない。
チームにも負担をかけてしまうし、自分の体にも負担が掛かっていたと思います。飛行機はビジネスクラスで帰らないと、足がパンパンに腫れますね(笑)。
――それは代表選手ならではの苦労ですね。ところでハンガリーでの3年目はいかがでしたか。
石立:最後の1年は日本代表の活動もしなかったので、自分の時間を取ることができました。3年目にしてハンガリー語も習い始めました(笑)。
この時、アシスタントとして12-13歳の子供たちのハンドボールの指導も行っていました。自分の中では、次の道に進もうと思っていたので「指導」というのは新鮮でしたね。
ハンガリーでの最後の1年は充実していたけど、自分が本当に熱くなれるものを失くしてしまったので…「世界で自分1人だけなんじゃないか?」と思うほど孤独を感じる時もあり、来年は日本に帰ろうと思いました。(前編終わり)
石立:中学生です。小学生の頃は陸上をしていました。しかし地元・福井は、冬になると雨や雪が多く室内でバスケやドッチボールをしていましたね。
中学生になりバスケ部に入るつもりで見学していたら、ハンドボール部の先生に「ちょっとうちも見学においで」と誘われました。
ハンドボールは初めて見るスポーツでしたが、ドッチボールで「ボールを投げる」ということは経験していたので、面白そうだから始めました。
――中学卒業後、女子ハンドボールの名門・石川県の「小松市立高等学校」に進学されましたね。これは強豪チームでプレーしたいという理由からですか?
石立:いいえ…実はハンドボールに誘ってくれた中学の先生が、入部したら厳しかったんです。中学時代、高校生と合同練習がありました。
福井は福井商業高校がハンドボールの名門でしたが、このチームの先生も怖くて「福井ではハンドボールは続けられない」と思いました(笑)。
中学2年生の時、私たちが敗れた石川県のチームが、楽しそうにハンドボールをプレーしていたんです。そのチームの3年生が進学したのが「小松市立高等学校」と父から教えてもらいました(笑)。
元々両親の出身も石川県ということもあり、小松市立高等学校に進学しました。 中学の時は先生の指示を忠実に守ってハンドボールをしましたが、高校は練習を含め自分で考えてプレーすることが多く、クリエイティブな面を育むことが出来ました。
――その後、当時全日本学生ハンドボール選手権大会3連覇を達成していた筑波大学へ進学しましたね。
石立:筑波大は20人弱のメンバーで、先生の指導も受けつつ戦術等、自分たちで考えることが多かったです。
例えば、高校時代は個人プレーで解決しようと思っていた場面も、大学では味方と協力しながら「どうしたら得点できるのか」「どうしたら人を生かすことができるのか」と、チーム全体のことを考えてプレーすることを考えるようになり、さらにハンドボールの面白さを知りました。
――大学卒業後はオムロンに加入、よりチームプレーを求められたかと思いますが…
石立:オムロンというチームは組織力が強くて、チームが勝つために自分が何をしなければいけないのか…チームの中での一人一人の役割を考えさせられました。「どのようにして勝つ集団を作るか」を学んだチームでした。
――オムロンに5年間所属し、その後、ハンガリーのフェヘールヴァールKCに移籍。これは、どのような経緯があったのでしょうか。
石立:大学時代から海外に行きたいと思っていました。オムロンに入り、日本代表に選ばれ何度も世界と戦いました。
ロンドンオリンピックの予選で敗れた時、合宿で海外に行き試合。その時点で自分はレベルアップしている。でも、そのレベルで戦っても海外勢に勝てない。
それで日本に戻り国内リーグでプレーしていると、自分のパフォーマンスが、どうしても落ちてしまう。 代表選手として海外で戦うと力が上がるのに、国内では力が停滞し、あるレベル以上突破できない自分に歯痒さを感じていました。
このままでは「オリンピックに出場する」という目標が叶えられない…目標に近づくには自分のパフォーマンスを上げる、そのためには海外で日常的にプレーする必要がある、と思い海外に行きました。
――石立選手は、日本と海外の実力の差は何だと思いますか。
石立:海外の選手は結果が全てです。良いパフォーマンスを出せば、それが給料に反映される。そのためには「どこで力を発揮しなければいけないのか」分かっています。
日本は給料も安定していて、良い意味で周りに守られています。当時の私は、そのような環境に物足りなさを感じてしまいました。
――そういう思いを感じてハンガリーのフェヘールヴァールKCに移籍したんですね。ただ残念なことに1年目でケガをされましたね。
石立:1年目、ケガをする前まで、チームの順位も私個人のパフォーマンスも良かったので悔しい思いがあります。ただ、リオオリンピック予選まで残り半年という時期だったので「早く治して戻りたい」という気持ちが強かったです。だから落ち込む暇もありませんでした(笑)。
――リハビリ期間を経て、翌年復帰しました。
石立:目指していた、リオオリンピックのアジア予選・最終予選で敗れ、オリンピックに出場できなくなりました。
このシーズンは目標としていたものが叶わなくてバーンアウト(燃え尽き症候群)していました。 これまで頑張ってきた理由がなくなり、ハンドボールを辞めて日本に戻って、第二の人生に進もうと考えていました。
――しかし、もう1年ハンガリーでプレーしましたね。
石立:大学卒業しオムロンに加入してから、「代表の活動」と「チームの活動」、常に行き来しながらハンドボールをプレーしていました。
ハンガリーでの3年目、最後の1年は「チームのため」にプレーして、選手活動を終えたいと考えていました。
実は、2年目フェヘールヴァールKCの結果が良く、翌年ヨーロッパのEHFカップへの出場が決まっていました。チームから3年目のオファーもあったので、この大会を最後の目標にし、ハンガリーに残りました。
――ハンガリーで活動すると同時に日本代表として活動するのは大変でしたか。
石立:大変ですね、特に時差ぼけが。ハンガリーと日本の時差は8時間あるので、状態を戻すのに3日かかります。
1つの合宿が2週間あると、3日でフィットさせます。だんだん調子が上がってきた時、チームに戻らなければいけない。
チームにも負担をかけてしまうし、自分の体にも負担が掛かっていたと思います。飛行機はビジネスクラスで帰らないと、足がパンパンに腫れますね(笑)。
――それは代表選手ならではの苦労ですね。ところでハンガリーでの3年目はいかがでしたか。
石立:最後の1年は日本代表の活動もしなかったので、自分の時間を取ることができました。3年目にしてハンガリー語も習い始めました(笑)。
この時、アシスタントとして12-13歳の子供たちのハンドボールの指導も行っていました。自分の中では、次の道に進もうと思っていたので「指導」というのは新鮮でしたね。
ハンガリーでの最後の1年は充実していたけど、自分が本当に熱くなれるものを失くしてしまったので…「世界で自分1人だけなんじゃないか?」と思うほど孤独を感じる時もあり、来年は日本に帰ろうと思いました。(前編終わり)