「ドーハの悲劇」前後の日本サッカーを語ろう! 金子達仁(KING GEAR発起人)×植田朝日(ドーハ1993+の映画監督)Vol.1
2人の出会いは今から約27年前の1992年。日本代表の遠征の地であったレッチェ(イタリア)でだ。当時、金子達仁はサッカーダイジェストの駆け出しの記者で植田朝日は大学生だった。そんな植田は映画監督として「ドーハ1993+」を作製し、2月17日に開催されるヨコハマフットボール映画祭で上映する。そんな2人のドーハ前後における話をふんだんに聞いた。
Koike Kikuchi
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2019/02/08
金子 朝日は当時「ミュンヘンから来ました」って言っていたよね。
Ueda そうそう、ベルリンに住んでいてミュンヘン経由で電車でレッチェに行ったんですよ。15~16時間かけて。そしたらバリで雪かなんかで電車が止まってしまって。
Kaneko けっこう天気が悪かったんだよな。寒かったし。あの頃って記者もファンも少なかったから、選手も含めてみんなそれぞれの距離が近かったよね。
Ueda そう、みんな近かった!
Kaneko 移動期間中にゲームボーイでひたすらウィザードリィをやっていて、ホテルのロビーでもやっていたら「みっともないからやめろ!」って誰かに怒られたんだよな。
Ueda 俺もカメラマンやライターの方とは関係が近かったから、短パンで歩いていたら「品がねえんだよ。食事会場には短パンで来るな!!」ってすげえ説教されたんですよ。
『なんでこんな言われないといけないんだよ!』と思いながらメシを食べてたら、その人がペコペコしていたオジサンたちがみんな短パンで食事に来て『注意しろよ。言えよ!』ってすげえ思ったのを覚えてます(笑)
Kaneko ファンの中で朝日はあの頃、最年少だよね?俺は記者の中で最年少で、とにかくどこに行ってもぺーぺーだったんだよな。
Ueda でもレッチェの時もそうだけど、当時のサッカー記者の人達って、サッカーファンじゃなくて、例えば「婦人部からきました○○です」とか、新聞社の人などは、たまたまサッカー担当になった人がやっていましたよね。
「サッカーやっていたし好きなんです!」っていう記者は金子さんくらいしかいなかったよ。
金子さんは「88年のヨーロッパ選手権オランダ大会の話」とか「86年のワールドカップとか84年のヨーロッパ選手権の話」ができる数少ない記者でしたよ。
Kaneko 日本代表の担当になっている記者の方だとそういう話が出来る人はいなかったのかもな。
Ueda ホントにまるでいなかった。むしろ新聞の方からは「朝日くん教えて」とサッカーの情報を俺から仕入れる感じだったし。ドーハの頃に関して言うとサッカー好きのサッカー記者はあまり知り合いではいなかったな。
Kaneko そもそも今回の映画のテーマはなんでドーハなの?
Ueda ドーハでの試合を全て現地で見て、定点観測してるのは俺くらいしかいないんですよ。
「なぜドーハなのか?」という問いには「映画を見て頂ければわかります」という感じかな。ネタバレになるので今はあまり詳細を語れないんですよ。
ドーハの経験者にインタビューをしたんですが面白かった話を少しだけ。
柱谷哲二さんに「オフト監督とラモスの間に挟まれて大変だったでしょ?」と聞いたら「2人の確執じゃない。ラモスがわがままで子供だっただけ」だって。
韓国に勝った後にラモスが「まだ残ってるよ。何も決まってないよ!浮かれんじゃないよ」と言った話は有名じゃないですか。哲さんに浮かれたのか聞いたら「そりゃ浮かれた」と。
実はあの時にビビッて動きが止まって、緊張して何もできなくなったのがラモスだって。今まで25年間自分たちが思っていた神話が壊れたね(笑)
あと、イラク戦のロスタイムのシーンで1番初めに浮かぶのが現地で見た映像じゃなくて、あのテレビで見た映像なんです。テレビであのシーンが映し出され過ぎて。
日本でテレビで見ていた人と同じ絵になっちゃってるのがどっかで嫌で。それ以来は現地で見た絵を大事にしてるんです。
ちなみに選手にも1番初めに浮かぶのはどの映像か聞いたら、選手によってまちまちでした。
Vol.2へ続く
http://king-gear.com/articles/1016
この映画の詳細や植田朝日さんのこの映画へ懸ける想いは以下のページでご覧ください。
『ドーハ1993+』クラウドファンディング
https://greenfunding.jp/lab/projects/2633
ヨコハマ・フットボール映画祭
http://2019.yfff.org/
表紙写真:ヤナガワゴーッ!
本文中の写真:菊池康平
Ueda そうそう、ベルリンに住んでいてミュンヘン経由で電車でレッチェに行ったんですよ。15~16時間かけて。そしたらバリで雪かなんかで電車が止まってしまって。
Kaneko けっこう天気が悪かったんだよな。寒かったし。あの頃って記者もファンも少なかったから、選手も含めてみんなそれぞれの距離が近かったよね。
Ueda そう、みんな近かった!
Kaneko 移動期間中にゲームボーイでひたすらウィザードリィをやっていて、ホテルのロビーでもやっていたら「みっともないからやめろ!」って誰かに怒られたんだよな。
Ueda 俺もカメラマンやライターの方とは関係が近かったから、短パンで歩いていたら「品がねえんだよ。食事会場には短パンで来るな!!」ってすげえ説教されたんですよ。
『なんでこんな言われないといけないんだよ!』と思いながらメシを食べてたら、その人がペコペコしていたオジサンたちがみんな短パンで食事に来て『注意しろよ。言えよ!』ってすげえ思ったのを覚えてます(笑)
Kaneko ファンの中で朝日はあの頃、最年少だよね?俺は記者の中で最年少で、とにかくどこに行ってもぺーぺーだったんだよな。
Ueda でもレッチェの時もそうだけど、当時のサッカー記者の人達って、サッカーファンじゃなくて、例えば「婦人部からきました○○です」とか、新聞社の人などは、たまたまサッカー担当になった人がやっていましたよね。
「サッカーやっていたし好きなんです!」っていう記者は金子さんくらいしかいなかったよ。
金子さんは「88年のヨーロッパ選手権オランダ大会の話」とか「86年のワールドカップとか84年のヨーロッパ選手権の話」ができる数少ない記者でしたよ。
Kaneko 日本代表の担当になっている記者の方だとそういう話が出来る人はいなかったのかもな。
Ueda ホントにまるでいなかった。むしろ新聞の方からは「朝日くん教えて」とサッカーの情報を俺から仕入れる感じだったし。ドーハの頃に関して言うとサッカー好きのサッカー記者はあまり知り合いではいなかったな。
Kaneko そもそも今回の映画のテーマはなんでドーハなの?
Ueda ドーハでの試合を全て現地で見て、定点観測してるのは俺くらいしかいないんですよ。
「なぜドーハなのか?」という問いには「映画を見て頂ければわかります」という感じかな。ネタバレになるので今はあまり詳細を語れないんですよ。
ドーハの経験者にインタビューをしたんですが面白かった話を少しだけ。
柱谷哲二さんに「オフト監督とラモスの間に挟まれて大変だったでしょ?」と聞いたら「2人の確執じゃない。ラモスがわがままで子供だっただけ」だって。
韓国に勝った後にラモスが「まだ残ってるよ。何も決まってないよ!浮かれんじゃないよ」と言った話は有名じゃないですか。哲さんに浮かれたのか聞いたら「そりゃ浮かれた」と。
実はあの時にビビッて動きが止まって、緊張して何もできなくなったのがラモスだって。今まで25年間自分たちが思っていた神話が壊れたね(笑)
あと、イラク戦のロスタイムのシーンで1番初めに浮かぶのが現地で見た映像じゃなくて、あのテレビで見た映像なんです。テレビであのシーンが映し出され過ぎて。
日本でテレビで見ていた人と同じ絵になっちゃってるのがどっかで嫌で。それ以来は現地で見た絵を大事にしてるんです。
ちなみに選手にも1番初めに浮かぶのはどの映像か聞いたら、選手によってまちまちでした。
Vol.2へ続く
http://king-gear.com/articles/1016
この映画の詳細や植田朝日さんのこの映画へ懸ける想いは以下のページでご覧ください。
『ドーハ1993+』クラウドファンディング
https://greenfunding.jp/lab/projects/2633
ヨコハマ・フットボール映画祭
http://2019.yfff.org/
表紙写真:ヤナガワゴーッ!
本文中の写真:菊池康平