無職から憧れのFC東京と国際舞台で戦った男 ~小田原貴インタビュー(後編)~
大学卒業後からフィリピンリーグでプレーし、昨年にはACLのプレーオフで憧れのFC東京との試合にフル出場した小田原貴。一時はサッカーを諦め、フィリピンで働いていた時期もあった。どのようにして憧れの舞台までたどり着いたのか。詳しく聞かせて頂いた。
Koike Kikuchi
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2021/03/12
※前編
無職から憧れのFC東京と国際舞台で戦った男 ~小田原貴インタビュー(前編)~ | King Gear [キングギア] (king-gear.com)
――サッカーからいったん離れてフィリピンで企業に就職されましたが、どんな会社でしたか?
小田原:商社です。すぐに出来ることは無かったので、最初は日本人の駐在員の方がやっていることを見ながら学んでいきました。営業同行などもさせて頂きましたよ。
――コミュニケーションは英語ですよね?
小田原:取引先とは日本語、工場とは英語で対応していました。
――どのくらい働いたのですか?
小田原:3月から7月末までの4ヶ月です。初めの6ヶ月は試用期間でした。
「しっかり働いてくれているので本採用を考えている」と言われていた時に、フィリピンリーグのチャンピオンチームであるセレスの監督から「日本人の中盤を探している。来て欲しい!」とオファーをもらったんです。
どうしてもチャレンジしたかったので、翌日に会社の社長と副社長に時間を頂き「サッカーの道に戻りたいので退職したい」と伝えました。
当然ながら「簡単に辞められては困る」と言われましたが、最終的には理解して頂き「頑張ってこい!」と社長から激励を頂きました。本当に感謝しています。
――就職していた期間はトレーニングしていたのですか?
小田原:仕事が終わった後に、日本人のコミュニティでフットサルをしたり、ジムに行ったりしていました。週末はアマチュアのサッカーにも混ざっていました。
――振り返ると3シーズンに渡りフィリピンでプレーして、いきなりクビになり、4シーズン目はチームも無く就職もしましたよね。通算5シーズン目にチャンピオンチームであるセレスに入団とは、人生わからないものですね。
小田原:本当にわからないものです。
――ブランクがある中でチームに合流していかがでしたか?
小田原:他のチームに比べて個の力が凄く高く、以前に対戦した時に感じましたが、セレスは自分たちで常にボールを保持できるんです。
日本で言う川崎フロンターレではないですが、王者のサッカーが出来るんです。
実際に入ってみてもそうでした。ただ、意外と守備が脆くてカウンターで1発もっていかれることがあったんです。
気を効かせる選手がいないと思い、監督に「ボランチかセンターバックで使って欲しい」と伝え、上手くはまりました。
――セレスでの結果はいかがでしたか?
小田原:シーズン途中で加入しましたが、そのままリーグ優勝して、カップ戦も優勝して充実したシーズンになり、翌年のACLのプレーオフにも出れることになりました。
契約も更新できて6シーズン目(2020年)も引き続きセレスでプレーすることになりました。
――そのACLのプレーオフでFC東京と試合をすることになったじゃないですか。どんな心境でした?
小田原:僕は府中出身でずっとFC東京のファンなんです。
フィリピンで優勝したシーズンオフに日本に一時帰国して、久しぶりにFC東京の試合を味の素スタジアムに観戦に行きました。
首位争いをしていたので、もしかしたらFC東京と試合であたるかもと少し予感はしていたんです。
組み合わせで自分たちのポットにFC東京が入った時は「信じられない!チャンスが来た」と思いました。
――その1年前はサッカーを辞めて就職していたのにFC東京と対戦することになるとは凄い展開ですね。
小田原:はい。セレスは東南アジアでは負けないなと感じていて、自分たちの力をしっかり出せれば、FC東京との試合まではたどり着けるだろうと変な自信がありました。
1月の半ばからACLのプレーオフが始まり、ミャンマーのチャンピオンチームに勝ち、その後に1点差でタイのチャンピオンチームに勝ち、いよいよFC東京との試合まで駒を進めれたんです。
――家族はどんな反応でした?
小田原:家族みんなが東京ファンですので大喜びでした!両親はフィリピンで開催されたミャンマーのチャンピオンチームとの試合にも応援に来てくれました。
――FC東京戦は生憎の雨ではありましたが、憧れの味の素スタジアムで戦えていかがでしたか?
小田原:意外と平常心でした。セレスに入った時くらいから気持ちの持ち方が変わりました。
セレスでは、どっしり構えている選手が多くて彼らから学びました。一定の気持ちで臨めるようになり、プレーも安定してきたんです。
――いつも通り臨めたんですね。
小田原:ただ味スタで前日練習が出来たんですが「ピッチから見るスタンドの感じとスタンドから見るピッチの感じは違うな。味スタは広いんだな」と思いました。
いざ試合の時は自分のやってきたことをしっかり出そうと割り切って出来ました。
――小田原さんのように日本のチームと国際舞台で対戦したいと思って海外に行く選手は多いですが、本当に叶えたのは数人じゃないですか。平常心とは言いながら憧れの選手と戦ってどうでした?
小田原:「高萩いるな、森重だ!」と思いましたが、試合が始まると普通のいち対戦相手で、それがアジアトップレベルの相手だなと試合中は思っていました。
――この試合はボランチをやっていましたが、印象に残った選手は?
小田原:森重選手と安部柊斗選手、レアンドロ、アダイウトンです。レアンドロとアダイウトンは大雨の中、個で違いを出していて、アダイウトンは独走したりと無双してましたよね。
安部選手は運動量が豊富で球際に強くて、チームの為に献身的に走れて戦える選手だなという印象が残りました。
森重選手は落ち着きと安定感という部分で群を抜いていて、ディフェンス4枚とキーパーがいて、これは点が入るかなと思ったのが正直な所でした。その中でも森重選手が特に印象に残っています。
――この試合は0-2で敗戦でしたが、どのくらい差は感じましたか?
小田原:監督が現実主義者というか勝利に徹する監督だったので、事前にビデオを見ている時も「お前らには恐らく勝機はない。ただ後ろを5枚にして、スペースを潰して1発を狙うしか俺たちのやり方はないよ」とMTGでは言われていました。ピッチ状態が良い時の想定でしたが。
それほどの力の差はあるだろうと認めたうえで、体感としてどうなのかは実際にやらないとわからないので。
負けたのであれですが、出来なくはないかなと感じました。「これは敵わねえな」とは思いませんでした。
チームは本気で勝ちにいってたし、出し切ったので悔いはないです。
――試合後にはFC東京のサポーターへ挨拶に行かれてましたよね。
小田原:植田朝日さんがタイポートとの試合を観に来てくださっていたんですよ。その時にホテルで会って、初めてお話しさせて頂いて「実は僕はずっとFC東京のファンなんですよ」など伝えました。
すると「勝っても負けても絶対に来いよ」と言われていたので、行かせてもらいました。暖かいサポーターの皆さんで感動しました。
――そのFC東京との試合が2020年1月26日でしたね。その後はどうなったんですか?
小田原:FC東京に負けてACLには出れなかったので、AFCカップに出て、3試合目にコロナの影響で無観客試合となりました。
3月半ばからチームの活動もストップしました。フィリピンもロックダウンになり2ヶ月くらい家から出れませんでした。
――その間は何をやっていたんですか?
小田原:家でトレーニングしたり、ジムも閉まっていたのでマンションの階段を走っていました。6月くらいに国が緩和し始めて、運動をしに外に出れるようになりました。
その頃にセレスは経営的に難しくなり、オーナーがいなくなり、チームがいったん無くなりました。
8月に新しいオーナーの元、既存の選手が契約を取り交わし、9月から人数制限はありながらも練習が再開されました。
10月に全チームがホテルに入り、1か月間という短期間でリーグ戦が開催されました。 そこで優勝して、来期のACLの本戦の出場権を獲得し、日本に帰国しました。
――契約更新はしたのですか?
小田原:話はしているがまだ結べていないです。
――フリーと言えばフリーなんですね。日本ではどんな生活を送ってますか?
小田原:年末まではゆっくりして、1月からトレーニングを再開しましたが、チームが決まっていない焦りもありながら過ごしています。
――最後にギアの話を聞きたいのですが、アスレタにサポートしてもらうことになったんですよね?
小田原:小・中・高・大学までユニホームがずっとアスレタだったんですよ!その話をさせて頂き、縁もあってサポートして頂けることになりました。
これまで私服でもアスレタを着ていましたし、スパイクも足に凄くフィットするので、新シーズンに使うのが楽しみです。
――チームが決まっていなく焦りもあるかと思いますが、応援しています!また決まったら教えてください。
このインタビューから約1か月後に、モルディブのチャンピオンチームであるMaziyaS&RCと契約した旨の連絡をもらった。
今はモルディブの地で日々トレーニングに励んでいるだろう。引き続き小田原選手の活躍に注目したい。
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写真提供:小田原貴
インタビュー写真:菊池康平
無職から憧れのFC東京と国際舞台で戦った男 ~小田原貴インタビュー(前編)~ | King Gear [キングギア] (king-gear.com)
――サッカーからいったん離れてフィリピンで企業に就職されましたが、どんな会社でしたか?
小田原:商社です。すぐに出来ることは無かったので、最初は日本人の駐在員の方がやっていることを見ながら学んでいきました。営業同行などもさせて頂きましたよ。
――コミュニケーションは英語ですよね?
小田原:取引先とは日本語、工場とは英語で対応していました。
――どのくらい働いたのですか?
小田原:3月から7月末までの4ヶ月です。初めの6ヶ月は試用期間でした。
「しっかり働いてくれているので本採用を考えている」と言われていた時に、フィリピンリーグのチャンピオンチームであるセレスの監督から「日本人の中盤を探している。来て欲しい!」とオファーをもらったんです。
どうしてもチャレンジしたかったので、翌日に会社の社長と副社長に時間を頂き「サッカーの道に戻りたいので退職したい」と伝えました。
当然ながら「簡単に辞められては困る」と言われましたが、最終的には理解して頂き「頑張ってこい!」と社長から激励を頂きました。本当に感謝しています。
――就職していた期間はトレーニングしていたのですか?
小田原:仕事が終わった後に、日本人のコミュニティでフットサルをしたり、ジムに行ったりしていました。週末はアマチュアのサッカーにも混ざっていました。
――振り返ると3シーズンに渡りフィリピンでプレーして、いきなりクビになり、4シーズン目はチームも無く就職もしましたよね。通算5シーズン目にチャンピオンチームであるセレスに入団とは、人生わからないものですね。
小田原:本当にわからないものです。
――ブランクがある中でチームに合流していかがでしたか?
小田原:他のチームに比べて個の力が凄く高く、以前に対戦した時に感じましたが、セレスは自分たちで常にボールを保持できるんです。
日本で言う川崎フロンターレではないですが、王者のサッカーが出来るんです。
実際に入ってみてもそうでした。ただ、意外と守備が脆くてカウンターで1発もっていかれることがあったんです。
気を効かせる選手がいないと思い、監督に「ボランチかセンターバックで使って欲しい」と伝え、上手くはまりました。
――セレスでの結果はいかがでしたか?
小田原:シーズン途中で加入しましたが、そのままリーグ優勝して、カップ戦も優勝して充実したシーズンになり、翌年のACLのプレーオフにも出れることになりました。
契約も更新できて6シーズン目(2020年)も引き続きセレスでプレーすることになりました。
――そのACLのプレーオフでFC東京と試合をすることになったじゃないですか。どんな心境でした?
小田原:僕は府中出身でずっとFC東京のファンなんです。
フィリピンで優勝したシーズンオフに日本に一時帰国して、久しぶりにFC東京の試合を味の素スタジアムに観戦に行きました。
首位争いをしていたので、もしかしたらFC東京と試合であたるかもと少し予感はしていたんです。
組み合わせで自分たちのポットにFC東京が入った時は「信じられない!チャンスが来た」と思いました。
――その1年前はサッカーを辞めて就職していたのにFC東京と対戦することになるとは凄い展開ですね。
小田原:はい。セレスは東南アジアでは負けないなと感じていて、自分たちの力をしっかり出せれば、FC東京との試合まではたどり着けるだろうと変な自信がありました。
1月の半ばからACLのプレーオフが始まり、ミャンマーのチャンピオンチームに勝ち、その後に1点差でタイのチャンピオンチームに勝ち、いよいよFC東京との試合まで駒を進めれたんです。
――家族はどんな反応でした?
小田原:家族みんなが東京ファンですので大喜びでした!両親はフィリピンで開催されたミャンマーのチャンピオンチームとの試合にも応援に来てくれました。
――FC東京戦は生憎の雨ではありましたが、憧れの味の素スタジアムで戦えていかがでしたか?
小田原:意外と平常心でした。セレスに入った時くらいから気持ちの持ち方が変わりました。
セレスでは、どっしり構えている選手が多くて彼らから学びました。一定の気持ちで臨めるようになり、プレーも安定してきたんです。
――いつも通り臨めたんですね。
小田原:ただ味スタで前日練習が出来たんですが「ピッチから見るスタンドの感じとスタンドから見るピッチの感じは違うな。味スタは広いんだな」と思いました。
いざ試合の時は自分のやってきたことをしっかり出そうと割り切って出来ました。
――小田原さんのように日本のチームと国際舞台で対戦したいと思って海外に行く選手は多いですが、本当に叶えたのは数人じゃないですか。平常心とは言いながら憧れの選手と戦ってどうでした?
小田原:「高萩いるな、森重だ!」と思いましたが、試合が始まると普通のいち対戦相手で、それがアジアトップレベルの相手だなと試合中は思っていました。
――この試合はボランチをやっていましたが、印象に残った選手は?
小田原:森重選手と安部柊斗選手、レアンドロ、アダイウトンです。レアンドロとアダイウトンは大雨の中、個で違いを出していて、アダイウトンは独走したりと無双してましたよね。
安部選手は運動量が豊富で球際に強くて、チームの為に献身的に走れて戦える選手だなという印象が残りました。
森重選手は落ち着きと安定感という部分で群を抜いていて、ディフェンス4枚とキーパーがいて、これは点が入るかなと思ったのが正直な所でした。その中でも森重選手が特に印象に残っています。
――この試合は0-2で敗戦でしたが、どのくらい差は感じましたか?
小田原:監督が現実主義者というか勝利に徹する監督だったので、事前にビデオを見ている時も「お前らには恐らく勝機はない。ただ後ろを5枚にして、スペースを潰して1発を狙うしか俺たちのやり方はないよ」とMTGでは言われていました。ピッチ状態が良い時の想定でしたが。
それほどの力の差はあるだろうと認めたうえで、体感としてどうなのかは実際にやらないとわからないので。
負けたのであれですが、出来なくはないかなと感じました。「これは敵わねえな」とは思いませんでした。
チームは本気で勝ちにいってたし、出し切ったので悔いはないです。
――試合後にはFC東京のサポーターへ挨拶に行かれてましたよね。
小田原:植田朝日さんがタイポートとの試合を観に来てくださっていたんですよ。その時にホテルで会って、初めてお話しさせて頂いて「実は僕はずっとFC東京のファンなんですよ」など伝えました。
すると「勝っても負けても絶対に来いよ」と言われていたので、行かせてもらいました。暖かいサポーターの皆さんで感動しました。
――そのFC東京との試合が2020年1月26日でしたね。その後はどうなったんですか?
小田原:FC東京に負けてACLには出れなかったので、AFCカップに出て、3試合目にコロナの影響で無観客試合となりました。
3月半ばからチームの活動もストップしました。フィリピンもロックダウンになり2ヶ月くらい家から出れませんでした。
――その間は何をやっていたんですか?
小田原:家でトレーニングしたり、ジムも閉まっていたのでマンションの階段を走っていました。6月くらいに国が緩和し始めて、運動をしに外に出れるようになりました。
その頃にセレスは経営的に難しくなり、オーナーがいなくなり、チームがいったん無くなりました。
8月に新しいオーナーの元、既存の選手が契約を取り交わし、9月から人数制限はありながらも練習が再開されました。
10月に全チームがホテルに入り、1か月間という短期間でリーグ戦が開催されました。 そこで優勝して、来期のACLの本戦の出場権を獲得し、日本に帰国しました。
――契約更新はしたのですか?
小田原:話はしているがまだ結べていないです。
――フリーと言えばフリーなんですね。日本ではどんな生活を送ってますか?
小田原:年末まではゆっくりして、1月からトレーニングを再開しましたが、チームが決まっていない焦りもありながら過ごしています。
――最後にギアの話を聞きたいのですが、アスレタにサポートしてもらうことになったんですよね?
小田原:小・中・高・大学までユニホームがずっとアスレタだったんですよ!その話をさせて頂き、縁もあってサポートして頂けることになりました。
これまで私服でもアスレタを着ていましたし、スパイクも足に凄くフィットするので、新シーズンに使うのが楽しみです。
――チームが決まっていなく焦りもあるかと思いますが、応援しています!また決まったら教えてください。
このインタビューから約1か月後に、モルディブのチャンピオンチームであるMaziyaS&RCと契約した旨の連絡をもらった。
今はモルディブの地で日々トレーニングに励んでいるだろう。引き続き小田原選手の活躍に注目したい。
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写真提供:小田原貴
インタビュー写真:菊池康平