The value of sports proved by Rikuya Izutsu, a heretic child born in the soccer world (Part 1)
"Is there a person in the J-League who has such an interesting idea?" When I read an article titled "Sports Science of Defeat" written by Rikuya Izutsu, a J-League, I saw my eyes. I just gave it to the man who was in front of me like this. In front of me was Wataru Kitahara, the former captain of Japan Futsal National Team.
Taisuke Segawa
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2019/04/20
昨年の夏、北原氏がフットサル界を盛り上げるために立ち上げた『スポーツを初めて観る人が本当に楽しめるか会議』というプロジェクトについての取材をしていたとき、北原氏が筆者にこう言った。
「このプロジェクトにも参加してくれてますけど、井筒陸也は本当に凄いんですよ。言語能力は僕なんかより数段上ですし、思考がとにかくハンパないんです。」
アスリートというイメージを覆す高い言語力とビジネス感覚を持つ北原氏がそこまで大絶賛するならと、すぐに手元にあったスマホで検索して読んだのが、上述の『敗北のスポーツ学』だった。この時以来、いつか井筒陸也を取材したいと思ってきた。
そんな筆者の目に、まさかのニュースリリースが目に飛び込んできたのは、2019年1月のことだった。所属チームの徳島ヴォルティスより井筒陸也の引退が発表されたのだ。あまりにも早すぎる井筒陸也の引退。引退発表の記事によれば、井筒は6部リーグにあたる関東2部リーグの「Criacao Shinjuku」でプレーすることが決まっているという。
「Criacao Shinjuku」と言えば、東京のチームじゃないか。しかもこのチームを運営するのは北原氏もパートナー契約を締結している株式会社クリアソンだ。さっそく北原亘氏に橋渡しをお願いし、良きタイミングを見計らって、インタビューさせてもらうことが決まった。 インタビューをお読みいただく前に、まずは、徳島ヴォルティスのホームページで公開された井筒氏の引退時のコメント(一部抜粋)に目を通していただきたい。
『3年間ありがとうございました。(中略)良い選手が揃えば勝てるか? と聞かれれば、半分はイエスですが、半分はノーです。このノーの部分には、戦術だけでなく、ビジョン、想い、エンゲージメント、そしてサポーターの声援というような、目に見えないパワーがあります。能力・技術で劣っていても、お金が少なくても、出身も言語も思想も何であれ、勝つチャンスがある。だから、スポーツは面白いんです。世の中もきっと同じことですが、それに気づくのが難しくて人々は挑戦出来ない。だからこそ、それをスポーツが証明して、勇気を配る必要がある。それが出来るから、スポーツには価値があるんです。「サポーターの声援って、勝利に貢献出来ていますか?」という質問をよくいただいて、常々、これに理由をつけてバシッとお答え出来るようになりたいと思ってきました。これからは、それを答えられる人間になることが、皆さんへの恩返しになると心に決めて、自分なりに死ぬ気で生きていきます。』
このコメントを読んだだけで、彼が先鋭的な視点を持つアスリートだということを感じていただけるのではないだろうか。井筒がスポーツの価値をどのように言語化するのか。井筒がスポーツの価値を証明するためにどんなアクションを取るのか。筆者はこのような興味を抱きながら、都内某所で井筒へのインタビューにのぞんだ。
――今年1月の急な引退発表には本当にびっくりしました。これにはどのような背景があったのでしょうか?
僕は小さい頃から、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりするのが好きでした。建物も好きですし。多方面に興味がある中で、何かの因縁があってサッカーを続けて来たという感じです。ずっとビジネス界には興味がありましたし、僕は天邪鬼な性格で、よく言えば好奇心旺盛なので、常に自分の好奇心が行く先々で活躍できる人間になりたいなと思っていたんです。でもそのためには、実力というか、いわゆる外側からの評価が大切です。「次にこれやりたいな」って思った時に「井筒さんには是非来てもらいたい」って言われるような、そんな生き方をしたいなと思っていました。
――いつ、引退しようと決意したのでしょうか?
小さい時から、ずっとサッカーをやめようと思っていました。サッカー界には金曜日問題っていうのがあるんです。サッカーは土日に試合があるので、金曜日は一切遊ぶことができないっていう問題です。これはJリーガーだけに限らず、下のカテゴリでも同じ。これまでの25年間、金曜日に遊んだり学んだりすることができなかったので、常に他の世界を見てみたいなと思っていました。
――プロサッカー選手であることに執着がなかったことにびっくりします。その思考を紐解くにあたって、これまでのキャリアを振り返らせてください。
僕は大阪府出身で、小・中学は地元の小さなクラブでサッカーをしていました。そのクラブには、サッカーをする上での能力に何かしら欠けている選手が集まっていました。僕は足が遅かったですし、ほかの人も背が小さいとか、技術が全くないとか。能力が高い人はガンバ大阪堺ジュニアユースのような強豪クラブに行くので、そこに入れない人たちが流れ着いてくるようなチームでした。それを指導者の方も誇りに思っていて「お前たちは普通にやっていたら絶対ガンバ大阪には絶対に勝てない。どうすれば勝てるのかを考えろ」って常に指導されてきました。そんな環境の中だったからこそ、自分や周りのことを考える力がついたのかなと思います。
――その後、和歌山県の強豪である初芝橋本高校に進学されていますね。
受験勉強をしたくなかったので、所属クラブの指導者の方のツテもあってスポーツ推薦で初芝橋本高校に行くことにしました。大阪から1時間半かけて通ったんですけど、体力的にもかなりキツかったですね。練習が終わって帰宅するのは毎日23時で、翌朝の4時半に起きてっていう生活でした。キャプテンをやらせてもらっていたのですが、集まった同級生たちは、南大阪の荒くれ者たちばかりで、僕がちょっとでもスキを見せると、急に言うことを聞いてくれなくなったりします。「いや違うでしょ」とか「お前の言うことなんか聞きたくない」って言ってくれる人たちでした。ご飯を食べられなくなったり辛い時期もあったんですけど、僕も死ぬほど頑張って、高校3年生の時にはみんながまとまってくれて、インターハイも全国高校サッカー選手権も出場することができました。一般の社会では、肩書きが上の人に何かを指示されたら、違う意見を持っていても渋々やりますよね。すると、だんだん上の立場の人たちも勘違いしていくと思うんです。でも、高校の同級生たちはそうじゃなかったんです。高校で学んだのは、肩書きが人の上に立たせるのではなく、そいつがやっているのかで決まるっていうことですかね。
――大学では史上初の四冠を達成したこともあり、相当に騒がれたと思うのですが。
スポーツ推薦で関西学院大学に進学しましたが、そこでもまた、サッカー部に集まった人間は個性の強い人間ばかりだったので、自分がやらなきゃヤバいと思って、4年計画でキャプテンをやらせてもらいました。関西の大会が2つと全日本の大会が2つ。大学サッカー史上初めて、4つのタイトルを獲っため、当時はかなり話題にしてもらいました。もともと、プロサッカー選手になるつもりもなかったので、就職活動をしていたんですけど、どうしても面接と練習が重なってしまうので、就職浪人する覚悟で、サッカーに集中することにしました。すると、ちょうどタイトルを取ったりしたこともあり、大学4年の夏ごろにJリーグからオファーが届きました。最後は就職浪人するかプロサッカー選手になるか、迷った末にプロサッカー選手になったという感じです。
――最終的にプロサッカー選手になった理由は?
先ほどもお話しした通り、僕の感覚では、サッカー選手になるつもりは全くなかったんです。ビジネスにも興味がありましたし、何よりも社会に出る前に、今までやれなかったことに挑戦したり、今まで出会えなかった人に会いに行きたいと思っていました。またサッカー選手になる上で、一番引っかかっていたのは、契約年数などのリスクです。長くても2年契約とかですから、クビになったらどうしようっていう感覚はありました。
新卒のタイミングって、いわゆる大企業や人気企業に入るタイミングとしてはラストチャンスでもあります。関学でサッカー部のキャプテンをやっていて日本一になりましたっていうブランディングがあったので、それなりのところにいけるのかなと過信していた部分もありました。でも、株式会社クリアソンを起業した2人の方から、「日本においては余程じゃないと餓死することはないし、そういうセーフティネットがあるんだから、死ぬほどチャレンジしていいと思う」という話をしてもらった時に、僕のリミッターが外れました。まずはプロサッカー選手になって、そこでしかできない経験をした方が、その先に必要としてもらえる可能性も高くなるならやってみようかなっていう考えに行き着きました。
――プロ入りしてからのキャリアも順調のように見えましたが。
J2は年間で42試合のリーグ戦があるんですけど、1年目は全てメンバー外でした。チームは30人くらいいるんですけど、怪我人がいるので、常時22〜3人で練習していて、そのうち18人がメンバー入りして遠征に行くんです。残りの3〜4人だけは遠征に行けないので、残った選手だけで練習するっていう1年間を過ごしました。2年目になると監督も変わって、21試合に出させてもらい、3年目は34試合をほとんどスタメンで、かつ選手会長もやらせてもらい、そして引退して今に至るという感じです。
――サッカーを通じて学んだことを抽象化し、他の世界でも活躍する術を身につけてきたからこその引退の決断のように感じます。この後は、プロ生活での学びや、それをどう活かそうとしているのかについて、突っ込んで話を聞かせてください。
Second partfollowed by
Interview / text / photo:Yasuyuki Segawa
「このプロジェクトにも参加してくれてますけど、井筒陸也は本当に凄いんですよ。言語能力は僕なんかより数段上ですし、思考がとにかくハンパないんです。」
アスリートというイメージを覆す高い言語力とビジネス感覚を持つ北原氏がそこまで大絶賛するならと、すぐに手元にあったスマホで検索して読んだのが、上述の『敗北のスポーツ学』だった。この時以来、いつか井筒陸也を取材したいと思ってきた。
そんな筆者の目に、まさかのニュースリリースが目に飛び込んできたのは、2019年1月のことだった。所属チームの徳島ヴォルティスより井筒陸也の引退が発表されたのだ。あまりにも早すぎる井筒陸也の引退。引退発表の記事によれば、井筒は6部リーグにあたる関東2部リーグの「Criacao Shinjuku」でプレーすることが決まっているという。
「Criacao Shinjuku」と言えば、東京のチームじゃないか。しかもこのチームを運営するのは北原氏もパートナー契約を締結している株式会社クリアソンだ。さっそく北原亘氏に橋渡しをお願いし、良きタイミングを見計らって、インタビューさせてもらうことが決まった。 インタビューをお読みいただく前に、まずは、徳島ヴォルティスのホームページで公開された井筒氏の引退時のコメント(一部抜粋)に目を通していただきたい。
『3年間ありがとうございました。(中略)良い選手が揃えば勝てるか? と聞かれれば、半分はイエスですが、半分はノーです。このノーの部分には、戦術だけでなく、ビジョン、想い、エンゲージメント、そしてサポーターの声援というような、目に見えないパワーがあります。能力・技術で劣っていても、お金が少なくても、出身も言語も思想も何であれ、勝つチャンスがある。だから、スポーツは面白いんです。世の中もきっと同じことですが、それに気づくのが難しくて人々は挑戦出来ない。だからこそ、それをスポーツが証明して、勇気を配る必要がある。それが出来るから、スポーツには価値があるんです。「サポーターの声援って、勝利に貢献出来ていますか?」という質問をよくいただいて、常々、これに理由をつけてバシッとお答え出来るようになりたいと思ってきました。これからは、それを答えられる人間になることが、皆さんへの恩返しになると心に決めて、自分なりに死ぬ気で生きていきます。』
このコメントを読んだだけで、彼が先鋭的な視点を持つアスリートだということを感じていただけるのではないだろうか。井筒がスポーツの価値をどのように言語化するのか。井筒がスポーツの価値を証明するためにどんなアクションを取るのか。筆者はこのような興味を抱きながら、都内某所で井筒へのインタビューにのぞんだ。
引退の背景にあったもの
――今年1月の急な引退発表には本当にびっくりしました。これにはどのような背景があったのでしょうか?
僕は小さい頃から、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりするのが好きでした。建物も好きですし。多方面に興味がある中で、何かの因縁があってサッカーを続けて来たという感じです。ずっとビジネス界には興味がありましたし、僕は天邪鬼な性格で、よく言えば好奇心旺盛なので、常に自分の好奇心が行く先々で活躍できる人間になりたいなと思っていたんです。でもそのためには、実力というか、いわゆる外側からの評価が大切です。「次にこれやりたいな」って思った時に「井筒さんには是非来てもらいたい」って言われるような、そんな生き方をしたいなと思っていました。
――いつ、引退しようと決意したのでしょうか?
小さい時から、ずっとサッカーをやめようと思っていました。サッカー界には金曜日問題っていうのがあるんです。サッカーは土日に試合があるので、金曜日は一切遊ぶことができないっていう問題です。これはJリーガーだけに限らず、下のカテゴリでも同じ。これまでの25年間、金曜日に遊んだり学んだりすることができなかったので、常に他の世界を見てみたいなと思っていました。
井筒陸也を作った環境を紐解く
――プロサッカー選手であることに執着がなかったことにびっくりします。その思考を紐解くにあたって、これまでのキャリアを振り返らせてください。
僕は大阪府出身で、小・中学は地元の小さなクラブでサッカーをしていました。そのクラブには、サッカーをする上での能力に何かしら欠けている選手が集まっていました。僕は足が遅かったですし、ほかの人も背が小さいとか、技術が全くないとか。能力が高い人はガンバ大阪堺ジュニアユースのような強豪クラブに行くので、そこに入れない人たちが流れ着いてくるようなチームでした。それを指導者の方も誇りに思っていて「お前たちは普通にやっていたら絶対ガンバ大阪には絶対に勝てない。どうすれば勝てるのかを考えろ」って常に指導されてきました。そんな環境の中だったからこそ、自分や周りのことを考える力がついたのかなと思います。
――その後、和歌山県の強豪である初芝橋本高校に進学されていますね。
受験勉強をしたくなかったので、所属クラブの指導者の方のツテもあってスポーツ推薦で初芝橋本高校に行くことにしました。大阪から1時間半かけて通ったんですけど、体力的にもかなりキツかったですね。練習が終わって帰宅するのは毎日23時で、翌朝の4時半に起きてっていう生活でした。キャプテンをやらせてもらっていたのですが、集まった同級生たちは、南大阪の荒くれ者たちばかりで、僕がちょっとでもスキを見せると、急に言うことを聞いてくれなくなったりします。「いや違うでしょ」とか「お前の言うことなんか聞きたくない」って言ってくれる人たちでした。ご飯を食べられなくなったり辛い時期もあったんですけど、僕も死ぬほど頑張って、高校3年生の時にはみんながまとまってくれて、インターハイも全国高校サッカー選手権も出場することができました。一般の社会では、肩書きが上の人に何かを指示されたら、違う意見を持っていても渋々やりますよね。すると、だんだん上の立場の人たちも勘違いしていくと思うんです。でも、高校の同級生たちはそうじゃなかったんです。高校で学んだのは、肩書きが人の上に立たせるのではなく、そいつがやっているのかで決まるっていうことですかね。
――大学では史上初の四冠を達成したこともあり、相当に騒がれたと思うのですが。
スポーツ推薦で関西学院大学に進学しましたが、そこでもまた、サッカー部に集まった人間は個性の強い人間ばかりだったので、自分がやらなきゃヤバいと思って、4年計画でキャプテンをやらせてもらいました。関西の大会が2つと全日本の大会が2つ。大学サッカー史上初めて、4つのタイトルを獲っため、当時はかなり話題にしてもらいました。もともと、プロサッカー選手になるつもりもなかったので、就職活動をしていたんですけど、どうしても面接と練習が重なってしまうので、就職浪人する覚悟で、サッカーに集中することにしました。すると、ちょうどタイトルを取ったりしたこともあり、大学4年の夏ごろにJリーグからオファーが届きました。最後は就職浪人するかプロサッカー選手になるか、迷った末にプロサッカー選手になったという感じです。
プロサッカー選手になったワケ
――最終的にプロサッカー選手になった理由は?
先ほどもお話しした通り、僕の感覚では、サッカー選手になるつもりは全くなかったんです。ビジネスにも興味がありましたし、何よりも社会に出る前に、今までやれなかったことに挑戦したり、今まで出会えなかった人に会いに行きたいと思っていました。またサッカー選手になる上で、一番引っかかっていたのは、契約年数などのリスクです。長くても2年契約とかですから、クビになったらどうしようっていう感覚はありました。
新卒のタイミングって、いわゆる大企業や人気企業に入るタイミングとしてはラストチャンスでもあります。関学でサッカー部のキャプテンをやっていて日本一になりましたっていうブランディングがあったので、それなりのところにいけるのかなと過信していた部分もありました。でも、株式会社クリアソンを起業した2人の方から、「日本においては余程じゃないと餓死することはないし、そういうセーフティネットがあるんだから、死ぬほどチャレンジしていいと思う」という話をしてもらった時に、僕のリミッターが外れました。まずはプロサッカー選手になって、そこでしかできない経験をした方が、その先に必要としてもらえる可能性も高くなるならやってみようかなっていう考えに行き着きました。
――プロ入りしてからのキャリアも順調のように見えましたが。
J2は年間で42試合のリーグ戦があるんですけど、1年目は全てメンバー外でした。チームは30人くらいいるんですけど、怪我人がいるので、常時22〜3人で練習していて、そのうち18人がメンバー入りして遠征に行くんです。残りの3〜4人だけは遠征に行けないので、残った選手だけで練習するっていう1年間を過ごしました。2年目になると監督も変わって、21試合に出させてもらい、3年目は34試合をほとんどスタメンで、かつ選手会長もやらせてもらい、そして引退して今に至るという感じです。
――サッカーを通じて学んだことを抽象化し、他の世界でも活躍する術を身につけてきたからこその引退の決断のように感じます。この後は、プロ生活での学びや、それをどう活かそうとしているのかについて、突っ込んで話を聞かせてください。
Second partfollowed by
Interview / text / photo:Yasuyuki Segawa